講座「読む人の気持ちをつかむ文章術」の質問に答えます

2015年冬期大阪藝術学舎の授業を受講してくれた方の質問に答えるコーナーです

講座レポートについて質問します。 by.W.Hさん

 講座レポートについて、質問します。課題テーマで「講座の受講を通じて学んだこと、得られたことについて、800文字程度でとりまとめること」とありますが、具体的にどのように書けば、よろしいのでしょうか。

 たとえば、各回の内容を要約して、その得られたことを述べる形、得られたことの一つ二つに絞って、今後の抱負を述べる形や、問いを設定してその答えを述べる論文の形などが考えられますが、どのような形がよいのか具体的に教えてください。

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f:id:pasoco:20150322225843j:plainお答えします!

 この質問は授業の中でざっとお答えしました。もうレポート提出は終わっているので、レポートを書くという目的には役に立たないのですが、どういう基準で採点していったかをこの質問を使って答えていこうと思います!
 わたしの授業をリンゴにたとえてみます。授業を受けるということは、わたしが用意したリンゴをもらうことです。わたしは、このリンゴのどこがおいしくてどんな栄養があってどこで見つけてくるか、それを説明し、みなさんに渡します。

 みなさんは、ふむふむ確かにこのリンゴはいいなあ!と思って受け取ってくれるでしょう。でもそのリンゴを手に入れて眺めているだけでは「学んだ」「得られた」ことにはならないのです。匂いをかいで、かじってみて、もぐもぐ食べてみて、体の栄養にして、今度は自分でどうやってリンゴを取ってこようかと考えて、授業を思い出しながら試行錯誤して、ようやく自分なりのちっちゃなリンゴを手に入れた!

 その唯一無二のリンゴをわたしは見たい。武勇伝を聞きたい。

 手渡したリンゴは知識とヒント。学ぶというのはその先にあります。「得られたもの」はわたしが渡したリンゴじゃないんです。いや、そのリンゴも大事な収穫物ですが、それだけじゃつまらない。リンゴがきっかけで始まった冒険の中にもっともっと重要なものがあります。冒険=自分の五感で感じ考えたこと、です。レポートやエッセイの面白さ・深さはこの「冒険」をどれだけできるかで決まります。

つまり、

A.こんなリンゴもらったよ!とリンゴの説明するだけ→初級

B.リンゴ食べたらこんなこと感じたよ!と自分の感じたことを説明する→中級

C.もらったリンゴを参考に自分なりのリンゴを探してくる→上級

となります。

 W.Hさんの質問を使わせてもらうと、「各回の内容を要約して、その得られたことを述べる形」は <A.リンゴの説明をするだけ> に相当します。評価は低め(でも講義の内容を理解しているので十分合格点)。「得られたことを一つ、二つに絞って、今後の抱負を述べる」は、A.にちょっとおまけがついた感じ。「問いを設定してその答えを述べる論文の形」はCになります。

 ただし、わたしの講座は自分の感じたことを表現する講座なので、形としては論文じゃなくてエッセイになります。実験や研究をする代わりに、自分の過去の体験や思い出をしっかり見つめ心を動かします。

 授業で聞いたことをきっかけに自分をふりかえって、素朴な疑問を抱き、その答えを探しにいく…。途中過程はもう暗中模索。レポートを書いていたことすら忘れて大冒険。でもその冒険の先に、今までは気づけなかった小さな何かを見つけるはずです。見つけたら冒険は終了です。

 しかし、ここで安心しては駄目ですよ。これはまだ下書きです。あっちこっち迷ったすべてを書いたら伝わりにくくなります。部屋を整理するように、いるもの、いらないものをよりわけて、順番に並べて、親切な道案内もたてて、そうやってようやく完成です。汗だくですね。
 同じ800字でも、これだけ手間暇かけた800字と、下書き(冒険)なしに、見えてるところへひょいひょいと5分で移動しただけの800とは、味わいが違います。この味わいの深さが面白さ(そしてレポートの場合は点数)に反映されています。とはいえ、こんな基準は余剰の部分。授業をしっかり理解できているという合格ラインは全員達していましたよ!
 おつかれさまでした。お預かりした添削も今からするので待っててくださいね!

 次の講座は夏…と言ってたのに秋になりました。大阪で9月か10月の土日のどこかに2日間連続の集中講義です(集中枠は土日しかないので)。朝から夕方までぎっしり2日間!

 次は何をしようかな。全部受講してもかぶらないように、でも初めての人にもわかるように、という両方の条件を満たせるよう考えてますので、またお会いできたら嬉しいです。

 次は集中なので添削はできないけれど、宿題を家でやる時間がない人にとっては、5回に分かれた講座より、授業中に集中してえいやっと書けるかもしれないです。授業中にできるだけ見て回って、突っ込みや感想を言えたらと思ってます。

 エッセイや小説のような、その人の想いがこめられた文章に赤を入れるのは、手術のためにメスで体に傷をつけるような気持ちがする。お互いの信頼関係がないと大怪我してしまう。それに、わたしの文章に対する考え方を伝えてからじゃないと、手術は成功しない。だから添削は授業を聞いてくれた人だけにしかしていないのです。

 少人数でじっくりやる講座もまたやりたいな。今のところは予定はありませんが長編を書きあげたらやってみたい。講座の感想をもらって、文章を書くってすばらしいことだなあと改めて実感させてもらいました。わたしも小説を書いて秋の講座までには長編作品をいくつか仕上げたいです。

 書き続けましょうね。コツコツと。その苦労は絶対むくわれます。書くということは幸せを貯金していることなのかもしれない。

構成するとは?  by.K.Kさん

 一回目の講義で、伝えたいこと、面白いことというテーマを与えられた。面白いことは何もないが身近な経験を頼りに『夫の入院』を書いた。そのエッセーを寒竹先生は面白いと評価してくださった。これで良いのかと思った。

 二回目の講義では、目じゃなく心で書こう。どのように感じたか、何を考えたかを書いてみようと。講義中に書き始めたものを先生は見て回られ、そのときそのまま書いてみようと指示をもらい、それを感染させ、短い文『正月三日』を提出した。この文章は一行半ほど削除した方が、前後の文章のつながりが解りやすいと推敲してくださった。削除する一文は私が言いたいことでもあった。一番言いたいことは言わない方が良い時もあることを知った。構成の難しさを知らされた。

 三回目の講義では、読みたいと思わせる文章を書く。この時も講義中に書き始めの文章を見て回られ私にはそのまま書くようにと前回と同じ指示をもらった。それを完成させ、『歩いています』というエッセーを提出した。三回目の作品は少し長くなった。

 伝わる描写になっているのか、独りよがりの文章になっていないか、読みたいと思える文章であるか、先生の評価待ちである。

 四回目の講義は構成であった。『歩いています』の文章は構成しなおした方が良いのではないかと思われる。長い文章になっただけにカットする必要もあっただろう。この講義で、先ほど提出したエッセーの構成を改めて考えさせられた。

 私は、パソコンの前で、思いつくまま書くので、内容も深みもなく、行き詰まること再々である。昨年五月に必要に迫られパソコンを入手した。目下練習中である。これを使いこなせたら文章も楽しく書けるようになれると思うし構成には大変便利である。

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f:id:pasoco:20150322225843j:plain お答えします…?
 答え…というか、質問というわけではないので、お手紙のお返事ですね。

 文章講座のようなものをしていると時々不思議なことに、小説家の書いた文章かと間違えるほど味わい深いエッセイに出会ったりします。いや、出会うことが不思議なのではないんです。上手い人もいっぱいいます。不思議なのは、書いた本人がそれを面白いと思っていないことなんです。「ものすごく面白いです」とわたしがしきりに断定し、講座の人たちにも読んでもらって、みんなも「いいなあ」って感じてくれる。それでも、本人は、そうかなあ…? と首をひねってたりする。

 不思議だ…。謙虚なのか、エッセイの面白さというものを誤解しているのか(ものすごくすごいことを書かなきゃいけないというふうに)、自分では自分の面白さが見えないものなのか……たぶん、その全部なんだと思います。

 エッセイの面白さにはいろいろありますが、その中のひとつに、文章を読んだだけで、著者がどういう人なのかが生き生きと目に浮かんで、著者になった気持ちで、著者の住んでいる世界をしみじみと感じることができる、という面白さがあると思います。別の人間の視点で世界を見ることができる面白さ。別の人生を感じることができる面白さ。

 K.Kさんのエッセイを読むと、しみじみとよいものが体に満ちてくるのです。K.Kさんの生き方そのものが文章に現れていて、教訓や立派なことを語らずとも伝わってくるものがあります。

 本人は伝えたいことは特にないと思いながら書いてらっしゃると思いますが、もしかしたら、無意識の中では「わたしという人間がこんなふうに生きているよ」ということを伝えたいのかもしれません。わたし自身、文章を書いて人に読んでもらう究極の目的は、わたしという人間がどんなふうに感じてどんなふうに生きているかを伝えて認めてもらいたい、ということかもしれないです。だから、K.Kさんのエッセイを見ながら、こんなエッセイが書けたら理想だなあと思いました。

 K.Kさんは肉体と文章がそのままつながっているんだと思います。普通の人は構えて気取ってしまうけど。目の前に読者(もうひとりの自分かも)がちゃんといる。親しい人に話すようにリラックスして書けている。

 無意識でそれができているからこそ、第三者の目で客観的に文章をデザインする「構成」の作業は難しいかもしれません。でもパソコンという頼もしいアイテムを手に入れたなら、その課題もクリアできるかもしれません。

 おすすめなのは、思いつくまま書いた最初の原稿(初稿)は、そのまま取っておき、「名前を付けて保存」で、もう1つ同じファイルを作り、そのファイルで推敲することです。
 元の原稿が残っているので、推敲用原稿はどれだけいじっても大丈夫。ばっさり消したり、入れ替えたり、好き勝手いろいろ試してみてください。消しすぎたと思ったら、取っておいた元の原稿のファイルも開いて、消してしまった部分をコピーし、推敲用のファイルにペーストして復活させましょう。

 失敗してもすぐにやり直せると思ったら、大胆に構成の練習ができると思います。
 
  でもK.Kさんは構成など考えずに、どんどん書いてほしいです。本当に面白いので。読む人がいない…って残念だなあ。ぜひ、パソコンをもっとマスターして、ブログデビューしてください!

 

おすすめのエッセイ集を教えてください by S.Hさん

 文章は、仕事上必要に迫られて書くことがほとんどでした。自分の文章を読むことも仕方なくやってきましたが、しばらくして読み直すと何じゃこれと恥ずかしくなることが多く、とりあえず書くけれど書きっぱなしにしてきました。

 今回、読む人の気持ちはつかめないまでも、せめて内容が伝わるくらいの文章を書けるようになりたいと受講を決めました。

 結果はともかく、先生の励ましはありがたかったです。今でも、何となく書けるような気がしているし、毎回いただくコメントのおかげで自分の文章を読み直し、再構成しようとする勇気が出てきました。

 今回までに、夏目漱石夢十夜」、小林秀雄「美を求める心」、江國香織「いくつもの週末」など、そして、寒竹先生の作品の数々を紹介いただきました。図書館や書店で読めるものは読むようにしています。他に、文章術の向上に参考にしやすいお勧めのエッセイ集など紹介いただけるとうれしいです。

 あたたかいイラストでの元気の出る講義、ありがとうございました。

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f:id:pasoco:20150322225843j:plainお答えします!
 書くけど書きっぱなし、その気持ちよく分かります。自分でダメな文章って分かってるから読み返したくないんですよね…。わたしは院生時代、英語で論文書いたときがそうでした。ダメなのは分かっている。でもこれが自分の100%だし、もう無理!…と目をつむってえいやっとボスに提出して、ばっさり赤が入って返ってきて、ああやっぱり…と打ちのめされながらも、なぜかもう一回がんばってみようって思えるんですよね。人に見てもらうって大事です。恐いけど。こんなめちゃくちゃな文章を読んで赤を入れてもらったんだから、その思いに答えなきゃ!って思うのかもしれません。あ、S.Hさんの文章はめちゃくちゃじゃないですよ!わたしの論文がひどかったという話です…。

 お勧めのエッセイですが、わたしは気分転換でさくさく読むのでわりと軽めのものが多いです。文章術の向上に役立つか分かりませんが、楽しんで読んでもらえれば、文章を書く敷居も低くなり、いろんなことを文章で残しておきたくなるかもしれません。

<軽くニヤニヤしながら楽しめるもの>
いろんなスタイルがあるのだなーという参考にどうぞ。頭がぐるぐるします。

世界音痴/穂村 弘 (小学館文庫)
歌人の種村さんの脱力エッセイ。変な人。
<サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい>
という歌を詠む方です。

しあわせのねだん /角田光代 (新潮文庫
角田さんの30代のときのエッセイ。毎日何を食べるかを楽しみに小説を書き続ける日々。あまりのダメさに脱力してしまうけど、そう見せるところが「技」だと思う。
美女と竹林/森見登美彦光文社文庫
竹林で竹を切る体験を語る妄想交じりのエッセイ。エッセイなんだか小説なんだか。独特の語り口にニヤニヤする。
先端で、さすわさされるわそらええわ/川上未映子 青土社
川上未映子さんのエッセイは視点が独特というか。日頃見逃しているいろんなことに対して疑問を持って考えていて、はっとさせられる。タイトルから察せられるように、変なお方ですけど。そこがたまらぬ。最近は子育てエッセイも出されているのでそちらのほうがややマイルドかな?

<人生を振り返りたくなる長いエッセイ>

構成の参考にどうぞ。

走ることについて語るときに僕の語ること/村上春樹文藝春秋
走ることについて語ってるのだけれど、そこに人生観が詰まっている。村上春樹という作家がこうやって作られたのだなあ…と小説を読むように読める長編エッセイ。彼は<構成>が抜群にうまいと思う。
深夜特急/沢木耕太郎新潮文庫
エッセイというよりルポタージュ? 昔、夢中になって読んだのでまた読み返したいなあと思っております。


<文章が味わい深いエッセイ>
私の「漱石」と「龍之介」/内田百閒(ちくま文庫

夏目漱石の弟子だった内田百閒のエッセイ。1編が短いのですいすい読める。内田百閒の目から人間くさい漱石が描写されていて面白い。オチや盛り上げもないのだけど、じわじわっときます。

ああ、挙げだしたらきりがない…!もっとあるんですが!もっと!(笑)

 やっぱり一番のおすすめは好きな作家さんのエッセイを読むことですね。小説とはまた違う面が見れて楽しいです。その他は、ぱらぱらっとめくって1編立ち読みしてみて、好きか嫌いか、それで決めるといいと思います。図書館では人気作家さんの小説はほとんど貸し出されてますが、エッセイコーナーはあまり人が行かないので、たいていの作品はぽつんと残されてたりします。掘り出し物があります。
 わたしはいつも、その場で立ち読みして、ぴんときたのを、大量に借りて、読んで気に入らなかったら、すぐに返してしまいます。読み終わってものすごーく気に入ったら、自分で買って本棚入りさせます。
 自分が書くようになると、エッセイを読む楽しさは増します。新聞のコラムや雑誌のコラムでよさそうなのを見つけたら、本を入手してみるのも手です。エッセイ、面白いですよ。
 


タイトルの持つ意味 by M.Kさん

「読む人の気持ちをつかむ文章術」というタイトルに興味を持って、この講座を受講することにしました。文章表現の方法や構成について、具体的な事例やご自身の経験を交えての話をとても興味深く聞かせていただき、また刺激も受けています。

 今までの授業を受けて、何かひとつ、質問をあげるとすれば、それは「タイトルの重要性について」です。小説であれエッセイであれ、自分自身が認識している作家の作品であれば、タイトルよりもその作家の名前に惹かれて読み始めることがほとんどです。しかし、名前を聞いたこともなく、経歴も知らない作家であれば、その文章を読み始める時に、何が書かれているのかを探る大きな手掛かりは、タイトルになるのではないでしょうか。

 先生は、作品を書くにあたって、タイトルの持つ意味をどのように考えているか、聞かせていただければと思います。またタイトルをつける時に、工夫されていることがあれば、合わせて教えていただけますでしょうか。

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f:id:pasoco:20150322225843j:plainお答えします!

わたし、昔、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を、恋人たちがライ麦畑で、あはは~♪ うふふ~♪ さあわたしをつかまえて~♪ って戯れている話だと思って敬遠してたんですよね。でも読んだら全然違いました。もっと違うタイトルだったら、早く読んだのに…と愕然としました(青春小説なので10代のうちに一度読みたかった)。あと、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は恐い話だと思ってたんですよね。なんか名前が恐いじゃないですか。呪われそうじゃないですか。読んだら全然違いました。もうちょっととっつきやすいタイトルにしてくれたら読者も増えそうなのになあ、と思います。
というわけで、まさにM.Kさんのおっしゃられる通り、タイトル大事なんです。

でも書き手にとっては、タイトルつけるのは荷が重い作業なんですよね…。本文の半分くらい、いや本文に匹敵するくらいの労力がいる。せっかく本文を苦労して完成させたのに、またがんばらないといけない。しかもひとことで書くなと言われて一生懸命文章をつらねて表現したのに、今度は逆にそれをひとことで表現しなくちゃいけない。校庭10周走れって言われてがんばって、ようやくゴールしてぜいぜい言ってるときに、はい、今度は反対周りに10周って言われるようなもので。嫌でしょ。さぼりたいですよね。だから、タイトルなんて重要じゃない、なんて言いたくなるんですが、それはただのさぼるための言いわけであって、やっぱりタイトルは重要ですよ、どう考えても。

タイトルをつけるときのモードは本文を書くときとは違うモードでやるのがコツかもしれません。作り手ではなく、マネージャーか営業マンかキュレーターになったつもりで、ちょっと客観的に第三者に紹介するつもりでさらっとつけるのがコツかも。

この講座のタイトルも、講師のわたしは「おいおい、ちょっと言い過ぎじゃないか、大丈夫か?」とおろおろしていますが、マネージャーモードのわたしが、この方が人が興味持ってくれそうだから、とつけました。
ちなみにわたしは昔、タイトルをつけるのがとても苦手で、作家デビューしたら編集者さんが素敵なタイトルをつけてくれるはず…と甘い考えを抱いていましたが、全然そんなことなく、自分の作品のタイトルは自分で考えるしかないことが分かったので、甘い考えを捨て、せっせと自分で考えるようになりました。

タイトルは本文と同じくらいクリエイティブでしんどくて、本文と同じくらい重要です。

 

結びの部分で上手く着地させるには…? by Y.Kさん

 これまでの4回の授業を振り返り、今の段階でどうしたらいいか漠然としているのは、第4回の文章構成についての回です。授業の中でも今回目指すレベルは「自分で気づくけど直せない」とのことでしたが、私自身まさにそのレベルだと感じています。

 私は定期的にエッセイのような文章を書く機会があります。その際、校正の段階で違和感を感じ、文章を組み替えてうまくはまる時もあるのですが、はまりきらずとても気持ち悪いまま抜け出せないことがあります。

 特に悩むことが多いのは結びの部分です。伝えたいポイントを絞って、冒頭につかみを持ってきて、時系列を整えて組み立てても、最後の最後でうまく着地できず、文章の終わりがふわふわと軽くなってしまう時には悶えてしまいます。

 伝えたいことの深掘をしきれていなかったケースも多いのですが、すでに思いは出そろっているのにうまくはまりきらず、違和感を感じる時は、どうしたらよいでしょうか。
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f:id:pasoco:20150322225843j:plainお答えします!
…といったものの、文章の最後をどうしたらいいか…これは難しい質問です。なぜならわたし自身、どうやって書いているのかよく分からないから…。だから、この「構成」についての第4回は授業もうまく伝えられなかったのでした。すみません。
 構成はね…えいえいって並び替えて、文章くんを通りやすくしてあげて、文章くんの導くままに任せているうちに終わりが突然現れる…。

f:id:pasoco:20150327223155j:plain←「伝えたいこと」を運ぶ文章くん


 文章くんについていって、その子が終わりたいと言えば終わりというか。
いかんこれ、木を見つめているとそこから掘り出されたい仏が見えてくるとか、そういう、スピリチュアルなあれですね。これでは全然説明になりませんね…。困った。

 文章の終わりというのは、意外にいろんなパターンがあるということを、様々なエッセイを読んで知ると、1つのヒントになるかもしれません。びしっと上手い着地をするものもあるし、尻切れトンボのものもあるし、着地をせずに余韻を残すものもあるし、突然断絶するものもある。新聞のコラム、ブログ、作家のエッセイ、それぞれ特徴があります。
 Y.Kさんのお悩みのすでに思いは出そろっているのにうまくはまりきらないケースは、もしかしたら、結び部分が蛇足になってるのかもしれません。出そろったところで終わってしまってもいいのかもしれません。「結ぼう」なんて考えず、そのまま読者に提示する。そういうパターンも有りです。ちゃんと思いが過不足なく出そろって、それが分かりやすく説明できていれば、結論は読者がそれぞれの胸の中に抱いてくれるはずです。
 文字数の2倍書いて削るということをやると、蛇足部分は入れられなくなるので、結びに悩まなくなるかも。書きたいことをいっぱい書いて削って削って何とか納まった…ふう…ということをやれば、結びをどうしようと悩むこともないかも。わたしが書くときはいつもこのパターンかもしれません。

似たような文章になってしまう… by 風呂敷ひげ郎さん

文章を書く楽しみ。

それは自分の心が動いたことをどんどん紙に殴り書きしている時である。日常とは違い、素直な私と出会えるからである。そしてその後は書き殴ったメモを苦しみながらまとめてゆくことになる。このまとめから完成に向かう作業の中で、最近「アレッ」と思うことがある。

1つはバラバラの文章をまとめてゆく際、接続詞を多用してしまう事。使えば使う程、文章の流れやリズムがなくなるとは知りつつ、止められないのだ。

2つめは、完成した文章を読み返してみると、「アレッ、この文章、以前にも書いたことがあるのでは」と思う事。新しい事、感動したことを中心に書いているはずなのに、まとめてみると、今までと似た構成、似たような帰結になって、ガッカリしてしまう。

以上2点、教えていただければ助かります。

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f:id:pasoco:20150322225843j:plainお答えします!

1つ目のお悩み、接続詞を多用してしまうということですが、この質問には接続詞は1度しか登場していませんね。普通より少ないくらいで、そのおかげで、前へ前へのめりこむような勢いのある独特の文章になっていると思います。この一度しか出てこない「そして」も、取ってしまっても意味は通じます。むしろ取っちゃったほうが自然につながるかもしれません。

授業でもお答えしちゃいましたが、もし普段書いてる文章に接続詞がいっぱい出てしまうのなら、たぶんそれが風呂敷さんの書くリズムなんだと思います。書くリズムを矯正しようとすると勢いがなくなっちゃうので、気にせず、そのままその調子で書き殴ってください。そして、推敲のときに接続詞を削ってみましょう。思い切って、一度、わざと全部取ってみてもいいかもしれません。案外、取っても意味が通じちゃいます。なーんだ、取っても大丈夫じゃないかと分かったら、適切な量まで減らせると思います。
ちなみにわたしは、初稿では「たぶん」と「いろいろ」を何度も書いてしまうので、せっせと推敲時に削っています。

もうひとつ、接続詞だらけになる原因を思いついたのですが、もしかしたら気が乗らない、書くことがあまりないけど長い量を書かなくちゃいけないというときに多くなってしまう、ということがあるかもしれません。中身がないから間をつなぐために接続詞を書いてしまう。このケースの場合は、中身をよく考えて充実させれば、接続詞の登場は減るかもしれません。

2つ目のお悩みですが、書きなれた人は誰でもあるあるとうなずく悩みかも。わたしも毎回違うこと書いているつもりなのに、自分のエッセイを集めて並べてみたら何だかワンパタかも…と反省しました。同じ人が書いてるのだもの、しょうがないですよ…と言ってしまうと答えにならないので、ワンパタから脱出する方法として文字数をガラッと変えるという提案をしてみます。1000字くらいで書いたものを400字で書いてみる。文字数が変わると、50m走とマラソンくらい意味合いが変わります。走り方も変わります。何を入れ、何を捨てるかを考え直すので、自分のパターンが壊れます。ポイントは最初から400字用に書くのではなく、1000字で完成させてから400字にすることです。何ひとつ削れない…!と頭を抱えて、悩んだあげく、きっと新たな取捨選択の基準が生まれるでしょう。とっても推敲力が鍛えられます。おためしください。

 

一人よがりの文章から脱却する方法は…? by I.Nさん

 私は通信部の写真コースに在籍していますが、写真と文章で物語を綴りたいと思っています。ただ、その文章は写真の見方を強要したり、こうだと断定するものであってはいけません。撮影者と写真を見た人の思うことは一致しません。共感したり違和感を覚えたりすることが大切だと思います。

 しかし、私が文章を書くと一人よがりの文章になってしまいます。自分では、面白く、人に伝えられると思って書いていても、後で読み返すと、人に強要するような感じの内容になっています。一回目の「文章が面白くなる秘訣」で、「面白くないのに面白いと勘違いしてしまいやすいケース→自慢したい気持ちがあるとき」の内容そのものになってしまいます。授業では「自分の心から出てきた素朴な思いを書く」「下書きを書きながら考えてみる」とありますが、その下書きからどのように組み立てていけば、一人よがりの文章から脱却できるのでしょうか。

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f:id:pasoco:20150322225843j:plainお答えします!

自分が面白いと思って書いたのに、人に面白くない(押しつけがましい)と思われる場合は、きっとまだまだ自分の中の面白い判定レベルが低いのかもしれません。もっと上げなくては。

面白いというのは感動です。わくわくしてときめいて、早く誰かに伝えて一緒に共有したい、ぴっちぴちでつかんだ手から逃げ出してしまうような、そんな感情です。何となくこの辺をこんな感じで書いたらかっこいいかな、というレベルでは面白い文章の種にはなりません。

写真にたとえると、きれいな景色を美しい構図で上手いこと撮りました(どやっ)という写真が一人よがりの文章で、発見して感動してこの美しさをどうにかして伝えたいと夢中になって撮った一枚は一人よがりではない思いが伝わる文章です。

下書きを書くのは、ぴっちぴちの思いを見つけ出すためです。シャッターチャンスを探してあちこちうろうろする感じ? 無駄足もいっぱいあります。が、これだと思うものを見つけたらあとはどうやって組み立てよう…なんて悩まなくても、その思いが引っ張ってくれていつの間にか書けているはずです。
思いが強すぎるあまり、強要するような文章になっていることもあるかもしれません。でも、大丈夫。そのための推敲です。強要する感じだなと思えば表現を変えたり削ったりしていけばいいのです。